-松屋銀座開店100年- 銀座三丁目 百年物語 第9話

おかげさまで2025年、松屋銀座は開店100周年! 本連載では、銀座三丁目で繰り広げられた、松屋ならではのあれこれを振り返りつつ、「松屋らしさ」を紐解いてまいります。
銀座店舗の拡大と三十間堀川「(さんじっけんぼりがわ/さんじっけんほりかわ)」

1925(大正14)年5月1日に開店した松屋銀座。当時は松屋呉服店銀座店でした。その大きさは、図のA。現在の1/2弱の面積です。戦後のGHQによる接収が解け、1953(昭和28)年に松屋としての営業が再開したときには、図のBの区画が店舗に加わりましたが、Bの1・2階部分は他の会社(銀行)でした。

店舗の大きさの変遷(本文参照)

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年には、大規模な増床が行われます。「若さが飛び出すワイド・デパート」というキャッチフレーズで、「2倍」ほどの大きさになったことをアピールしました。Cの区画が加わり、銀座三丁目ワンブロックが店舗になったものの、北西角の1・2階には東京銀行が入っていました。しかし2000(平成12)年の11月にはその区画に〈ルイ・ヴィトン〉が入り、銀座三丁目ワンブロックがまるまる松屋という現在の形になりました。

1964(昭和39)年増築時の広告

ところで、銀座店の裏手には戦後しばらくまで大きな川が流れていたと言うと、驚く人も多いのではないでしょうか。「三十間堀川」といい、銀座を一丁目から八丁目まで南北に貫いて流れる運河でした。もともと徳川家康が江戸入りした時代に、現在の銀座一帯は江戸前島といわれる半島の中にありました。その海岸線が、三十間堀川の西岸になっています。その後、この沖合いに石を積み並べて、海側に埋め立て地を造成。埋め残した水路が、三十間堀川です。できた当初は川幅が三十間(約55メートル)ほどあったことが名前の由来(その後、川幅が狭められました)。 銀座三丁目区間でいうと、松屋の2ブロック先の現在は朝日稲荷がある区画と、その先の紙パルプ会館のある区画の中程までが川で、その両岸には簡易な建物が並んでいました。

戦前の三十間堀川

第二次世界大戦の末期、東京は何度も空襲に見舞われ、銀座地区もその例外ではありませんでした。戦後しばらくの間、銀座の街は建物の瓦礫(がれき)だらけの「焼け野原」でした。その瓦礫を処理するために三十間堀川を埋め立てることが、1948(昭和23)年6月に決定。1952(昭和27)年7月には、埋め立て工事が完了しました。造成された土地の上には次々と細長いビルが建てられ、今ではかつてここに川が流れていたとは信じられません。でも、そんな街角に立って、目の前が川だった時代の景色を想像するのも、粋な楽しみなのではないでしょうか。 

現在の銀座三丁目と、三十間堀川だったところ(赤)

書き手:田代 健

松屋グループの東京ファッション専門学校校長。松屋を中心に、当グループ一筋40余年のキャリアを持ち、これまでに「松屋150年史」の副編集長などを務める。

バックナンバーはこちら
-松屋銀座開店100年- 銀座三丁目 百年物語
シェアする
TOPへ戻る ポイントWEBサービス
ログイン