-松屋銀座開店100年- 銀座三丁目 百年物語 第1話

おかげさまで2025年、松屋銀座は開店100周年を迎えます。 本連載では、銀座三丁目で繰り広げられた、松屋ならではのあれこれを振り返りつつ、「松屋らしさ」を紐解いてまいります。
1925:関東大震災を乗り越えて開店

松屋の銀座店が開店したのは、1925(大正14)年5月1日。当時の社名は「(株)松屋呉服店」。神田今川橋にあった店から銀座店に「本店」変更の登記が完了したのは、翌年3月になってからでした。

 

もともと松屋の歴史は、1869(明治2)年に初代・古屋德兵衛が、開港でにぎわう横浜のはずれで開業した「鶴屋」から始まります。当初は端切れ反物類の小売りをしていました。その後、東京・神田にあった今川橋松屋を買収し、念願の東京へ進出。店が発展する中で、呉服店から百貨店へと進化していきます。しかしその店も徐々に手狭になっていきます。そこで目をつけたのが、当時すでに日本一の繁華街として隆盛を誇っていた銀座でした。

 

現在、松屋銀座となっているこの場所(正面口側)には、明治時代に「東洋煙草大王」と自称した岩谷松平(いわやまつへい)の天狗煙草(岩谷商会)の工場兼店舗兼住居がありました。その土地が大正時代に競売にかけられたとき、徴兵保険(株)(のちの東邦生命)が落札し、当時としては画期的な8階建てオフィスビルの建設が1921(大正10)年春から始まったのです。松屋はこのビルに目をつけ、二代目・古屋德兵衛(初代社長)が社運を賭けた決断を下し、銀座進出を決めました。関係者の努力と猛烈なアタックにより、この建物を賃借することとなり、百貨店用に内部設計の変更も行われました。その結果生まれたのが、現在も残る中央ホールの吹き抜け空間です。

 

建設中(オフィスビルから百貨店へと設計変更)

ところが、工事中の1923(大正12)年9月1日、このビルを関東大震災が襲います。地震に耐えた鉄筋コンクリートの骨組を火が覆ったものの、少々の手直しで建築は続行されました(後年、「火が入っているので、鉄筋が強化されて丈夫な建物なのだ」とうそぶく者もいました)。そのような苦難を乗り越え、丸4年の工期を経てビルは完成。めでたく開店を迎えたのは、震災から1年8カ月後のこと。銀座通りにできた百貨店としては6丁目の松坂屋(現在のGINZA SIXの場所)より約半年遅く、4丁目の三越よりは5年早い開店となりました。8階建ての1~6階が売場。7・8階は事務室。地下1・2階はボイラー室、変電設備など機関関係と倉庫に充てられました。

 

開店時の新聞広告

開店当日には飛行機「松屋号」が東京各所にビラをまき、想定以上の来客でごった返しました。当時の百貨店は下足禁止で、お客様は店に備えつけの草履に履き替えていたのですが、用意した5,000足の草履が2時間余りで出尽くしてしまったため、「下足預かり取りやめ」の指令が出て、履物のまま店内を歩けるようになりました(同時期にほかの百貨店でも同様の事象があり、商業の現代化が進んでいったのです)。

 

開店後数日間は、1日の来店客数が平均20万人という大盛況。現在の松屋銀座の敷地の半分弱でしたから、恐るべき混雑だったはずです(ちなみに、現在の松屋銀座は、お正月の初売りでも1日の入店客数は5万人程度)。店内は身動きが取れないほどの大入りとなり、1時間ごとに入口の大扉を閉ざして入店制限を行ったのだそうです。

 

開店ポスター(多田北烏 画)

 

こうして当時のモボ、モガ(モダンボーイ、モダンガールの略。1920年代に流行の先端を競った)をはじめ、東京の人々に大いなる人気を博した松屋は、銀座とともに歩み始めたのでした。

書き手:田代 健

松屋グループの東京ファッション専門学校校長。松屋を中心に、当グループ一筋40余年のキャリアを持ち、これまでに「松屋150年史」の副編集長などを務める。

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