
戦後の貧しい時代にも、カメラを求める人たちは銀座にやって来た
──細川社長は子供の頃から機械いじりが好きだったそうですね。それが昂じてカメラの道へ進まれたのですか?
小さい頃から時計を分解したりラジオを組み立てたりするのが好きだったので、最初は地元高松の電気工事会社に就職しました。戦後間もない頃の話です。その後、縁あって、東京のカメラ店で働かないかという話をいただきましてね。当時のカメラはライカやローライといった高級品は珍しく、海外の普及品ばかりでした。当然、私も触ったことすらありませんでしたし、口べたですから商売に向かないのは分かっていましたが、とにかく東京へ行きたかったので、これ幸いとその話を受けたのです。そのお店が、晴海にある現在の「銀座カツミ堂写真機店」。独立するまで7年間、カメラと商売について一から勉強させていただきました。

──今と同じように、当時から銀座には多くのカメラ店が集まっていました。何か特別な理由があったのでしょうか?
進駐軍が駐留していたからでしょう。有楽町には米軍の総司令部がありましたし、バラックが建ち並び始めた銀座界隈にはアメリカの兵士が大勢いました。終戦直後は彼らがカメラを売買していたんですよ。なにせ高価な道具ですから、当時の日本人にはカメラを買う余裕なんてありません。そもそもカメラの数自体が少なかった。流通するカメラはライカなどの海外製品で、ほとんどが進駐軍の横流し品。やがて戦後の混乱期に大金をつかんだ日本人が、成功の証としてカメラを買うようになりました。私が銀座で働き出した1951年は日本製のカメラが出てきた頃で、四畳半メーカーと呼ばれた小さな会社の製品が飛ぶように売れましたよ。まもなく朝鮮戦争が勃発し、日本製カメラの評判が上がってさらに売れるようになったわけです。この頃はどの店も新製品を中心に扱っていましたね。
──もともと機械好きだったせいでしょうか、細川社長はカメラの技術をマスターするのが早かったとか。
店に入るまでカメラのことなど何も知りませんでしたし、先輩が教えてくれる世界でもありません。見よう見まねで覚えるしかありませんでした。新人がライカを触れるわけじゃありませんから、最初は日本の四畳半メーカーのカメラを分解・修理して構造を学んでいくわけです。毎日点検・修理していると、音を聞いたり触ったりするだけで、持ち込まれたカメラの不具合が分かってくる。カメラのことが分かってくるともっと知りたくなるから、自然に詳しくなります。今でも店舗の上にある工房では、自分で点検・修理していますよ。周りからは、細川は商売は下手だけど技術は最高、なんてからかわれてますけどね(笑)。












