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Vol.4 ギンザのサヱグサ ~三枝進 社長

2011年8月3日更新

供服専門店の老舗「ギンザのサヱグサ」の社長である三枝進氏は、銀座の歴史や文化に精通した“銀座のご意見番”的存在。子供の頃は隣町の日本橋から、成長してからは銀座の商店主として、70年余りにわたって変わりゆく銀座の姿を見続けてきた。この街をつくってきた人々の影を追いながら、現在の銀座に求められている大切な要素について語っていただいた。

銀座は洋服に着替えて出かける“特別な場所”だった

──三枝社長は日本橋生まれの日本橋育ちだそうですね。銀座にはどのような印象をお持ちでしたか?

日本橋は落ち着いた老舗の街、銀座はにぎやかな新しい街というイメージでした。銀座は麹町や番町といった山の手の人たちが買物に行くところ、日本橋は下町の人々が買物をする場所と、はっきり分かれていたんです。当時の日本橋の人々は、銀座はチャラチャラして品がない街だと思っていました。だけど銀座には新しい店が次々とできて、見たこともない商品が沢山並んでいる。好きとは言えないけれど、どうにも気になって仕方がない(笑)。みんな、本当は行ってみたいと思っていたんです。私がまだ幼い頃(昭和十年代)から、銀座は特別な街だったんですよ。母親は割烹着のまま日本橋の百貨店に出かけていましたが、銀座へ行くとなると、わざわざ洋服に着替えてお洒落をしていました。

──銀座は戦時下の空襲で大打撃を受けました。社長は隣街から銀座の復興ぶりをご覧になっていたわけですね。

ええ。でも銀座が最も活気づいていたのは、私が生まれる前の1920年代、大正末期から昭和初期にかけてでしょう。モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれる流行に敏感な男女が現れ、銀座の若者文化を形づくっていった時代です。銀座をぶらぶら歩く姿を指して、“銀ブラ”と言うようになったのもこの頃。ところが戦争が始まるとそうした風俗は批判されるようになり、銀座はただの買物の場、地味な街に変わってしまいました。戦後の銀座を復興した人々には、以前の活気ある街を早く取り戻したいという気持ちが強かったのだと思います。

──社長が「ギンザのサヱグサ」に入社されたのは1965(昭和40)年です。この頃になると、街の様子もだいぶ変わっていたのではありませんか?

今でこそ銀座は“大人の街”というイメージが伝わっていますが、当時の銀座は若い人の街でした。欧米の最先端ファッションが他のどこよりも早く入ってくるのが銀座でしたから、流行に敏感な若い人たちがどっと押し寄せたんです。外見は違いますが、彼らの意識は戦前のモボ・モガに近かったのかもしれません。私どものように、商売をする方も忙しくなりました。欧米のファッション情報がどんどん入ってきましたから、洋服を海外から輸入するのはもちろん、自ら作る店も増えましてね。子供服の専門店であるサヱグサも、外国製品を輸入するだけでなく、オリジナル商品を積極的に開発するようになりました。

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